銀座ファースト法律事務所所長のつぶやき

弁護士田中清のブログ。最近気になることや、趣味のことなど雑記。

中学校その1

昭和34年4月、高槻市立第二中学校に入学した。
二中は、清水小学校本校からさらに20分ほど歩いたところにあった。
家から歩いて上の口バス停まで歩き、そこからバスに乗って浦堂バス停で降り、そこから20分歩いて二中まで行くのである。家から二中までは、片道50分ほど掛かった。
浦堂から二中までの20分の道のりはほとんどが田んぼであるが、3か所ほど、こんもりとした小さな山があった。自分なりの解釈で、これは古墳(円墳)ではないかと思った。
 二中から阿武野の方に歩いて行くと、継体天皇陵があった。
 二中のすぐ下に、大蔵司(ダイゾウジ)という場所があり、そこには「古藤」「後藤」「蔵人」という人が多かった。おそらく奈良時代のころから大蔵司(オオクラツカサ)があり、藤原氏が治めていたのであろう。「古藤」「後藤」「蔵人」という名前は、そのまま、奈良時代平安時代を思わせる名前である。大蔵司は、清水小学校の管轄区域なので、同級生にも古藤君が2人も居た。
 同じく清水小学校の管轄区域に服部というところがある。ここには「服部」「福岡」「織」という人が多かった。「服部」は、「ハタオリベ」「ハトリベ」がなまったものだから、その名残だと思う。
 このように、高槻の山側には、古くから開けた場所が多く、おそらく飛鳥時代から人が住み着いていたのであろう。
 私の父方の祖母が服部から嫁いでいたので、服部の血が私にも流れているのである。
 二中の下には芥川が流れており、私の村を流れている川の下流である。川を渡るとトロッコ道があり、トロッコは走っていなかったが線路はまだ敷いてあった。
 二中から大蔵司に掛けて、幅50メートルほどの草むらがあり、スズメやヒバリが多くいた。なぜこんなに幅広い原っぱがあるのか分からなかったが、後になって、これが名神高速道路の敷地だということが分かった。