銀座ファースト法律事務所所長のつぶやき

弁護士田中清のブログ。最近気になることや、趣味のことなど雑記。

イタリアポンペイ遺跡について

10年ほど前に、イタリア旅行をし、ポンペイの遺跡を見学しました。

ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺えます(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっていますが、当時は港もあり海洋都市でもありました)。

 

碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されておりました。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっております。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設も多かったそうです。

 

紀元79年、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続いたということです。そして、その火山灰が降り積もった末期に、ポンペイは、大規模な火砕流に襲われ、ほとんどの人が死んでしまったのです。

その後発掘調査が行われ、私も見学しましたが、ずいぶん文明的に進んだ町だったという印象です。

人々は、昼頃まで働いて、それから居酒屋に行き、地中海の海産物やチキンや豚肉などの食べ物をサカナにワインを飲み、パンでお腹を膨らませていたようです。

居酒屋のみならず、劇場、娼婦館があり、道路は石畳で舗装され、水道も完備し、鉛の水道管が通っていました。

パン屋も火砕流に埋もれ、焼き立てのパンが、6つほど残っていました。

 

当時の日本は、弥生時代で、ようやく、中国の後漢に対し、日本(倭)の奴国が、朝貢をし、「漢の倭の奴の国王」の金印を授かったとされています。

日本とローマの文明の差と時代の差を感じた旅でした。そして、ローマではまだキリスト教が十分広まっていなかった時代です。もちろん教会などの遺跡もありません。

 

それにしても、ポンペイを見学したときは、快晴であり、ヴェスヴィオ火山が綺麗だったことが印象的でした。もう一つびっくりしたことは、西洋の方は背が高いという印象でしたが、ポンペイで発見された人たちは、140cm前後だったのが未だに記憶に残っております(記憶違いでないことを祈りますが)。

ポンペイでは、鮮やかな壁画も多数発掘されております。「アレキサンダー大王とペルシャのダリウス3世の戦い」の図は、見事な作品ですが、これが石の床に描かれた絵画と聞いて、二度びっくりしました。

 

銀座ファースト法律事務所 弁護士 田中 清

 

※写真は、ポンペイ遺跡の地面図です。

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