銀座ファースト法律事務所所長のつぶやき

弁護士田中清のブログ。最近気になることや、趣味のことなど雑記。

70年安保闘争と学生運動

 昭和43年12月〜3月は、大学が異常に荒れたころだった。革マル派中核派社青同解放派社学同(ブント)など、5流13派の学生運動が吹き荒れていた。
 1つは、1960年に締結された日米安全保障条約が1970年(昭和45年)に期限が切れることから、安保条約の廃止を求めて盛り上がったことだった。これを70年安保闘争という。
もう1つは、学生運動が5流13派に分かれ、さらに無所属の学生たちが全学共闘会議全共闘)を結成し、純粋に大学改革等をスローガンとして、5流13派をまとめ上げていったことである。この無所属の学生たちをノンセクト・ラディカルと呼んでいた。
 一方、共産党系の民主青年同盟も相当の勢力を持っており、約半分の大学代議員を占めていた。この当時の大学では、このように日共系と反日共系の勢力が拮抗していたと言ってよい。
 全国的な事件となったのは、東大安田講堂事件である。東大安田講堂事件とは、学生の自発的組織である全学共闘会議全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠したことに始まる。大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日に封鎖解除を行った事件である。
 全国的なニュースとなり、その攻防戦はテレビで生中継され、私も友達の下宿で数人が集まって食い入るようにテレビにかじりついた。
 この事件の影響で、東大の入試が中止となり、私たちと同期の東大の学生は、同年6月末まで卒業式が延期された。東大卒業生は、3か月遅れて7月に司法研修所に入所した。

 これに安田講堂事件に2週間ほど遅れて京大事件が起きた。京大では日共系本部構内を占拠し、反日共系を締め出した。
 また、2月には反日共系学生が奥田東・京大総長とが、時計台の下の法経1番教室において、徹夜交渉し、暖をとるために、机になっていた教室の樫の一枚板を燃やしてしまい、於保教授が「あの板は貴重だ。二度と作れないだろう」と嘆いていらっしゃったことを聞いたことは、前に述べたとおりである。
 私たちの昭和44年卒業、そして、その次の昭和45年卒業の時が、学生運動のピークであり、70年安保条約自動延長とともに、学生運動は下火になっていったのである。

  弁護士 田中 清(弁護士法人銀座ファースト法律事務所)