銀座ファースト法律事務所所長のつぶやき

弁護士田中清のブログ。最近気になることや、趣味のことなど雑記。

大学3 貧乏学生

 大学は、今も知り合いが多く、年に数回ゴルフや新年会、暑気払いで集まっている。したがって、実名で書くのは憚られる。
 クラスでは、浪人生が元気で、リーダーシップを取っていた。父親の職業は、弁護士、税理士、会社役員など、裕福な家庭の息子が多かった。
 その中で、私は、最も貧乏な家庭の息子であり、金銭的な余裕は全くなかった。リーダー的存在のグループと四条河原町の横丁の安い飲み屋に2回ほど行ったが、金銭的にそれ以上付き合うことができなかった。しかし、1回飲みに行っただけなのに、ママさんは2回目からは「田中さん」「田中さん」と呼んでくれる。ママのプロ根性と記憶力の良さに舌を巻いた。
 月5000円の特別奨学資金の外に、家庭教師のアルバイトの申し込みが6人くらいあった。1人週1回2000円、週2回3000円というのが、相場だったが非常にありがたかった。親には、授業料(年間1万2000円)は出してもらったが、それ以外、一切の援助はなかった。
 今でも、同窓会で、「田中、お前はクラスで一番貧乏やったんと違うか」と複数の友人から言われる。自分では当時その意識はなかったが、複数のクラスメイトからそう言われると、「なるほど、そうだったかもしれない」と思うようになった。同窓会では、「お前は、学生服しか持っていなかったな」とか、「下駄でいつも学校に来ていたなあ。下駄以外の履物は持っていなかったんと違うか」などと言われる。そう言えば、当時は、学生服で下駄ばきで通ったような気がする。
 とにかくお金が無かったことだけは、よく覚えている。そして、クラスメイトが裕福で、とても付き合い切れなかったことも。
 困ったのは、高槻駅から実家のある村までの交通手段であるバスの最終バスが午後9時25分だったことだ。少し友人と話し込んだりすると、すぐにバスに乗り遅れる。したがって、クラスメイトの下宿によく泊まらせてもらった、KやYやMの下宿に、何回も泊まらせてもらったことは、よく覚えている。
 弁護士 田中 清